2020年1月23日ロサンゼルスにて
1月22日に日本を発ち、現在、ロサンゼルスのホテルである。時差は日本の方が17時間進んでおり、現在当地は23日の午前4時頃だが、日本では午後9時(21時)頃になる。
主目的は、現地で本日23日と明日24日に行われる年金会議への出席であるが、今回分では、ホテルに到着するまでの道中記を記してみたい。
まず、日本での住まいは池袋に近いので、JRの成田エクスプレスを利用した。乗り換えなしで成田空港でが行けるためだが、以前に比べると、成田エクスプレスの利用者は、かなり減った感じである。やはり、時間(間隔含む)や料金では、日暮里発の京成スカイライナーに分があるようである。
成田空港(第1ターミナル)では、フライトまで時間があるので、出国審査の前に、クレジットカードのラウンジ(空港ビル5F)を利用した。以前はクレジットカードでラウンジが分かれていたが、統合されたようで広くなっており、アルコールも1杯無料だった。ビジネスクラスなどの出国審査後のラウンジの利便性には比べるべくもないが、まあ一息つくことはできる。
出発便のANAの搭乗手続きは、最悪だった。これまでの経験では、エコノミークラスの場合、機体後方の座席から搭乗案内を行っており、合理的だと感じたものだが、今回は全席一斉で区分を行っておらず、長蛇の列ができていた。工夫がないと無駄が生じる。
さて、ロサンゼルス空港に到着してからだが、入国審査が面倒臭くなっている。ESTAで事前申請が義務付けられている上に、機械で個人情報を登録する必要があるのだが、それを行った上で、さらに係官が指紋採取などの作業を重複して行っている。何のための二重作業が分からず、いずれ機械登録主体になるのかもしれないが、現状は煩わしい。
煩わしいのは、ようやく空港を出て、市内に向かう交通機関についてもである。実は、ここで大きな変化が起きている。従来、市内に向かう便利で安価な手段は、(利便性に劣る公共交通機関を除くと)空港シャトルだった。乗合にすれば費用を抑えられたのだが、これが2019年末に事実上廃止された。事実上というのは、継続している会社もあるのだが、悪評やトラブルが頻発しているのである。
廃止の理由だが、Uberなどの自家用車による乗用サービスが拡大したことによる。このことは、空港施設にも甚大な影響を与えており、客を求めて殺到する自家用車で大混雑しており、ロサンゼルス空港では、各ターミナルを出たところから乗車できたのを取りやめ、タクシーやUberなどを集めた乗り場としてLAX-itを新設している。その乗り場まではターミナル間の無料シャトルで向かえるのだが、そのための乗車場所がはっきり分からず、結局、歩いて向かう(20分程度)羽目になってしまった。
さて、LAX-itでだが、もう主体は、Uberなどのサービスに移っている。今回は、Uberなどのアプリ登録を行っていなかったため、タクシーを利用したが、乗客はまばらだった。今回のホテル(会議場)は、郊外のユニバーサルスタジオ近くだったため、空港シャトルでも60ドル以上の費用見込みだったが、タクシー利用で110ドル(チップ込み)を要してしまった。Uberなどなら、恐らく半値くらいだったと思うし、乗車前に料金が確認できてクレジット払いなので、現金の心配がない。空港シャトルも、事前料金把握・クレジット払いだったのだが、乗り場がLAX-itになり、押し寄せる自家用車の大群の中では、乗客と設定した時間通りの乗車が行えず、トラブル頻発になったのであろう。
「百聞は一見にしかず」というが、このようなUberなどのサービスを当たり前の事として東京五輪に押し寄せてくる外国人旅行客を考えると、交通機関についても万全の受け入れ態勢と言えるかどうか疑わしい。幸い、日本の場合には、公共交通機関の電車やバスが充実しているが、タクシー利用とUberなどのサービスのせめぎ合いは、激しいものがあるだろう。ロサンゼルス空港の状況を見ると、もはや空港タクシーは生き延びてはいけないのではないかと思う。「時代の波」を、倍近く払わざるを得なかった料金で考えさせられた。
2020年1月23日木曜日
2020年1月23日 日経 朝刊 23面 家族の変化と社会保障(4)子どもが持つ経済的意義
「やさしい経済学」欄における東北大学の若林准教授による連載解説記事である。 「家族の変化と社会保障」というテーマに関心を抱いた。
今回の内容は、「子どもが持つ経済的意義」ということで、「両親は子どもを持つことによる便益が費用を上回ったときのみ、もう1人子どもを持つことを選択します。この限りにおいて、経済学的には子どもの数が「少なすぎる」ことはなく、適切な数の子どもが生まれているといえるので、少子化は問題ではありません。」というものである。
その次に、「子を持つという行動は社会の第三者に便益(もしくは費用)をもたらすのでしょうか。つまり子どもに外部性はあるのでしょうか。」ということを論じており、「日本の公的年金制度は、勤労者世代が支払う税や保険料が高齢者世代の給付に使われる賦課方式です。すなわち、子どもをもう1人産むことは、親以外の第三者の生活をよくする便益を発生させます。」としている。
さらに続けて、「少子化は社会的に問題だとの主張がなされますが、そもそもそうした主張は、公的年金が賦課方式となっていることに起因します。親が希望する子どもの数よりも、制度を維持するために必要とされる子どもの数が多くなるためです。自分が将来受け取る年金を積み立てておく積立方式では、支払った年金保険料は将来自分が受け取るので、第三者の便益にはなりません。」としている。
最後に、「したがって外部性は発生せず、子どもの数が少なすぎるとはいえないのです。少子化が問題だという議論に、経済学的な根拠を見いだすのはなかなか難しいように思います。」と結んでいる。
この「経済学的議論」には、違和感を感じる。子どもの外部性が生じるのは、「公的年金が賦課方式」だからで、「積立方式」なら外部性は生じない、と言っているが、それは、積立方式なら、「自分の所得の範囲内で自分の老後の費用も賄われる、故に、子ども(自分の子でも他人の子でも)に依存することはない。」という理屈によるのであろう。
しかし、ならば、自分が成人になるまでの費用は、誰が賄っているのか。それは、親になるわけだが、この論説の考え方は、子育ての費用は、子育ての便益と一致しているはずであり、親に対する負債として残るものではないということになろう。だが、それは実態に合うものなのであろうか。
私は、子育ての便益の中には、子が老後に面倒をみてくれる期待も含まれるものと考える。人の寿命には不確実性があるわけだが、子の存在は、その不確実性に対する保険の役割を果たす面があると思うのである。
年金制度が「積立方式」なら、という議論に対しては、そもそも年金制度がなかったら、人は老後のために積み立てるものなのか、という根本的な疑問がある。子がいれば子に期待する分がある一方、子がいなければ自力で準備するしかない。
年金制度は、結局のところ、この子による親の扶養を、家族単位から社会単位に転換したものである。その仕組みが成り立つには、扶養を受ける親と扶養をする子どもの数(および期間)が均衡していなければならない。少子化が、この均衡を崩すのは、実は、「子どもを持たない人が、年金制度によって、他人の子どもに扶養してもらう」からに他ならない。
誤解lを招くのは、「現役のうちに老後のための保険料を支払っている」という年金制度のレトリックによるわけだが、そもそも、それは真実ではない。真実は、自分の親の扶養のために保険料という形で費用を分担しているわけである。この公的年金制度の本質からして、公的年金制度が積立方式で運営されることは、あり得ないのである。
結局、この論説には、以上のような考察が欠落している。そもそも、子どもの意義を、経済的側面に限定して論じること自体に、無理があるのではないか。
「やさしい経済学」欄における東北大学の若林准教授による連載解説記事である。 「家族の変化と社会保障」というテーマに関心を抱いた。
今回の内容は、「子どもが持つ経済的意義」ということで、「両親は子どもを持つことによる便益が費用を上回ったときのみ、もう1人子どもを持つことを選択します。この限りにおいて、経済学的には子どもの数が「少なすぎる」ことはなく、適切な数の子どもが生まれているといえるので、少子化は問題ではありません。」というものである。
その次に、「子を持つという行動は社会の第三者に便益(もしくは費用)をもたらすのでしょうか。つまり子どもに外部性はあるのでしょうか。」ということを論じており、「日本の公的年金制度は、勤労者世代が支払う税や保険料が高齢者世代の給付に使われる賦課方式です。すなわち、子どもをもう1人産むことは、親以外の第三者の生活をよくする便益を発生させます。」としている。
さらに続けて、「少子化は社会的に問題だとの主張がなされますが、そもそもそうした主張は、公的年金が賦課方式となっていることに起因します。親が希望する子どもの数よりも、制度を維持するために必要とされる子どもの数が多くなるためです。自分が将来受け取る年金を積み立てておく積立方式では、支払った年金保険料は将来自分が受け取るので、第三者の便益にはなりません。」としている。
最後に、「したがって外部性は発生せず、子どもの数が少なすぎるとはいえないのです。少子化が問題だという議論に、経済学的な根拠を見いだすのはなかなか難しいように思います。」と結んでいる。
この「経済学的議論」には、違和感を感じる。子どもの外部性が生じるのは、「公的年金が賦課方式」だからで、「積立方式」なら外部性は生じない、と言っているが、それは、積立方式なら、「自分の所得の範囲内で自分の老後の費用も賄われる、故に、子ども(自分の子でも他人の子でも)に依存することはない。」という理屈によるのであろう。
しかし、ならば、自分が成人になるまでの費用は、誰が賄っているのか。それは、親になるわけだが、この論説の考え方は、子育ての費用は、子育ての便益と一致しているはずであり、親に対する負債として残るものではないということになろう。だが、それは実態に合うものなのであろうか。
私は、子育ての便益の中には、子が老後に面倒をみてくれる期待も含まれるものと考える。人の寿命には不確実性があるわけだが、子の存在は、その不確実性に対する保険の役割を果たす面があると思うのである。
年金制度が「積立方式」なら、という議論に対しては、そもそも年金制度がなかったら、人は老後のために積み立てるものなのか、という根本的な疑問がある。子がいれば子に期待する分がある一方、子がいなければ自力で準備するしかない。
年金制度は、結局のところ、この子による親の扶養を、家族単位から社会単位に転換したものである。その仕組みが成り立つには、扶養を受ける親と扶養をする子どもの数(および期間)が均衡していなければならない。少子化が、この均衡を崩すのは、実は、「子どもを持たない人が、年金制度によって、他人の子どもに扶養してもらう」からに他ならない。
誤解lを招くのは、「現役のうちに老後のための保険料を支払っている」という年金制度のレトリックによるわけだが、そもそも、それは真実ではない。真実は、自分の親の扶養のために保険料という形で費用を分担しているわけである。この公的年金制度の本質からして、公的年金制度が積立方式で運営されることは、あり得ないのである。
結局、この論説には、以上のような考察が欠落している。そもそも、子どもの意義を、経済的側面に限定して論じること自体に、無理があるのではないか。
2020年1月22日水曜日
2020年1月22日 日経 夕刊 7面 (十字路)「株式貯蓄」再び?
「株式貯蓄」という言葉は、1980年代に証券会社が編み出したもので、「比較的リスクが低い優良株への長期投資を個人に促すという戦略」にかかるものだそうである。
「再び?」としている背景には、「2018年度の上場企業全体(変則決算を除く)の支払配当額は14兆円に上る。加えて日本独特の株主優待もある。」ということがある。「今の高配当の恩恵を直接には享受できていない。しかし、高齢化が進むとインカムゲインはさらに重要になる。その主役のはずの債券投資にはリターンが無いに等しく、しかも、日本では個人が買える玉(ぎょく)が少なすぎる。」として、株式を貯蓄のように利用したらどうかというのである。
確かに、低金利の状況の中、預金金利はスズメの涙だし、債券投資は、クーポン金利を得るものではなく、さらなる金利低下による価格上昇狙いのものとなっている。しかし、だからといって配当狙いの株式投資に進むのがよいとは、いちがいには言い切れない。配当は一つの着眼点だが、満期のない株式への投資の最終的な成果は、売却時の価格水準によることになる。「高齢化が進むとインカムゲインはさらに重要」ということに目をつけて「毎月配当型の投信」が大々的に売られてきたが、投資収益が振るわず、元本を毀損したものもあり、金融庁から販売自粛を迫られるに到った。個別の株式では違法配当になって抑止されるものの、配当重視で株式投資を考えることの危険性は、十分に認識する必要があるだろう。
「株式貯蓄」という言葉は、1980年代に証券会社が編み出したもので、「比較的リスクが低い優良株への長期投資を個人に促すという戦略」にかかるものだそうである。
「再び?」としている背景には、「2018年度の上場企業全体(変則決算を除く)の支払配当額は14兆円に上る。加えて日本独特の株主優待もある。」ということがある。「今の高配当の恩恵を直接には享受できていない。しかし、高齢化が進むとインカムゲインはさらに重要になる。その主役のはずの債券投資にはリターンが無いに等しく、しかも、日本では個人が買える玉(ぎょく)が少なすぎる。」として、株式を貯蓄のように利用したらどうかというのである。
確かに、低金利の状況の中、預金金利はスズメの涙だし、債券投資は、クーポン金利を得るものではなく、さらなる金利低下による価格上昇狙いのものとなっている。しかし、だからといって配当狙いの株式投資に進むのがよいとは、いちがいには言い切れない。配当は一つの着眼点だが、満期のない株式への投資の最終的な成果は、売却時の価格水準によることになる。「高齢化が進むとインカムゲインはさらに重要」ということに目をつけて「毎月配当型の投信」が大々的に売られてきたが、投資収益が振るわず、元本を毀損したものもあり、金融庁から販売自粛を迫られるに到った。個別の株式では違法配当になって抑止されるものの、配当重視で株式投資を考えることの危険性は、十分に認識する必要があるだろう。
2020年1月22日 日経 朝刊 19面 (大機小機)国家規模のスマートシュリンクを
「そろそろ人口問題についての基本姿勢を再考すべきではないか」「現実を踏まえて我々は人口1億人に固執するのをやめるべきだ」とし、「人口が減っても国民一人一人の福祉水準を維持・向上できる」社会を目指すべきだ、とする論説である。
そして、これからは国全体が、賢く人口減少と共存する「スマートシュリンク」を目指すべきではないか、と結んでいる。
この論説の論調に異論はないが、国家規模の「スマートシュリンク」の中身は、何なのだろうか。個人規模なら、「断捨離」として、不要な物を捨て、「足るを知る」暮らしが考えられる。そこから推察すると、日本の現状はどうなるのか。今年は東京オリンピックと浮かれており、大阪万博だ、カジノIRだと、とても必要とは思えない催しが目白押しである。結果的に、不要な物を作り、その維持費や後始末に、将来世代が追われることになるのではないか。「スマートシュリンク」がまず必要なのは、政治家をはじめとする日本人の頭の中のように思える。
「そろそろ人口問題についての基本姿勢を再考すべきではないか」「現実を踏まえて我々は人口1億人に固執するのをやめるべきだ」とし、「人口が減っても国民一人一人の福祉水準を維持・向上できる」社会を目指すべきだ、とする論説である。
そして、これからは国全体が、賢く人口減少と共存する「スマートシュリンク」を目指すべきではないか、と結んでいる。
この論説の論調に異論はないが、国家規模の「スマートシュリンク」の中身は、何なのだろうか。個人規模なら、「断捨離」として、不要な物を捨て、「足るを知る」暮らしが考えられる。そこから推察すると、日本の現状はどうなるのか。今年は東京オリンピックと浮かれており、大阪万博だ、カジノIRだと、とても必要とは思えない催しが目白押しである。結果的に、不要な物を作り、その維持費や後始末に、将来世代が追われることになるのではないか。「スマートシュリンク」がまず必要なのは、政治家をはじめとする日本人の頭の中のように思える。
2020年1月22日 日経 朝刊 7面 (中外時評)2050年からの警鐘
上級論説委員の藤井彰夫による論説で、1997年元旦からの連載企画「2020年からの警鐘」を振り返り、「当時から識者は少子高齢化の問題を指摘していたが、結局、抜本的な対策はとられず、昨年の国内出生数はついに90万人を割り込んだ」遠い将来に感じられた「2020年」がついにやってきた、という書き出しである。
そして、「問題の本質は、識者の多くが将来の危機を認識しながら、結局、改革が進まなかったことだ。少子高齢化も日本型雇用の行き詰まりも決して「想定外」の危機ではない。」としている。
そして、「給付抑制や増税など痛みを伴う改革は避けられない」とし、先送りしていけば、30年後には再び「わかっていたのになぜやらなかったのか」と後悔することにならないだろうか、と警鐘を鳴らすものである。
今に固執すると未来は展望しにくくなる。未来から今を考えると、今の課題が浮かび上がってくることになる。この記事の要点は、そこであろう。一方、日本の政財界のリーダーは高齢化している。30年後の2050年に、自らは生存していないと考える人も、少なくないであろう。なればこそ、若いリーダーが必要なのである。スウェーデンの環境活動家であるグレタ・エルンマン・トゥーンベリさんの切実な訴えが耳に入らないような年代の人では、もうダメなのである。そんな例には、事欠かない。米国のムニューシン財務長官は、「大学で経済を勉強してきてから、我々に説明してほしいものだ」と皮肉ったそうだが、情けないものであり、学問の意義も理解していない愚か者としか思えない。
上級論説委員の藤井彰夫による論説で、1997年元旦からの連載企画「2020年からの警鐘」を振り返り、「当時から識者は少子高齢化の問題を指摘していたが、結局、抜本的な対策はとられず、昨年の国内出生数はついに90万人を割り込んだ」遠い将来に感じられた「2020年」がついにやってきた、という書き出しである。
そして、「問題の本質は、識者の多くが将来の危機を認識しながら、結局、改革が進まなかったことだ。少子高齢化も日本型雇用の行き詰まりも決して「想定外」の危機ではない。」としている。
そして、「給付抑制や増税など痛みを伴う改革は避けられない」とし、先送りしていけば、30年後には再び「わかっていたのになぜやらなかったのか」と後悔することにならないだろうか、と警鐘を鳴らすものである。
今に固執すると未来は展望しにくくなる。未来から今を考えると、今の課題が浮かび上がってくることになる。この記事の要点は、そこであろう。一方、日本の政財界のリーダーは高齢化している。30年後の2050年に、自らは生存していないと考える人も、少なくないであろう。なればこそ、若いリーダーが必要なのである。スウェーデンの環境活動家であるグレタ・エルンマン・トゥーンベリさんの切実な訴えが耳に入らないような年代の人では、もうダメなのである。そんな例には、事欠かない。米国のムニューシン財務長官は、「大学で経済を勉強してきてから、我々に説明してほしいものだ」と皮肉ったそうだが、情けないものであり、学問の意義も理解していない愚か者としか思えない。
週刊モーニング2020年1月22日(第6号)『ドラゴン桜2』
今回は、少し目先を変えて、標記のマンガについて、紹介してコメントしたい。
『ドラゴン桜』は、三田紀房氏による著作で、テレビドラマにもなったが、荒れた三流高校を、東大合格者を出して、立て直すという物語である。この『ドラゴン桜2』は、その続編にあたる。どちらも受験テクニックを織り交ぜ、受験生心理や教員の指導方針を、風刺を混ぜて浮き彫りにするもので、非常に興味深い。この続編では、SNSなどの今風のツールの活用も織り込んでいる。
ところで、今回、このマンガを取り上げたのは、作中で年金制度について、言及しているからである。主人公の桜木理事が、集まった生徒に対して、次のように言っている。
「君たちが70歳になる55年後、今とは全く違う社会に変わっていることは確実だ」
「現在は70歳の多くはすでに仕事を辞めて老後の生活に入っているだろうが、55年後はみんな元気で働いているかもしれない」
「みんな元気で働けば年金は必要ない。国は制度そのものを廃止するだろう」
「年金をやめれば国民の面倒を見なくてすむ。その上で税金は多く納めさせたい」
「そのためにも国民には一生働いてもらいたい。働いて死ぬまで税金を払って欲しい。これが国の本音だ」
そして、次のように続ける。
「文句を言わず、ただ国の制度に従って働き続ける国民であってほしいのだ」
「国民を他の言葉に言い換えると・・・馬車馬」
このマンガでは、馬車馬にならないために「東大に行け」と煽り、生徒達が拍手喝采するという進行になっている。ご都合主義だが、ロジックとして説得力のあるように構成されている。
さて、このマンガが提起している問題を、どのように考えればよいのだろうか。まず、東大に行っても、税金を私的に流用して説明責任を果たさない総理の擁護に必死になっている高級官僚の有様を見れば、東大に行くことが解決策にはなりそうもあるまい。
そもそも、年金制度は廃止されるのだろうか。それが正しい方向なのだろうか。少子高齢化の進行で、長生きして子供も少なくなれば、長く働くことが必要になることは、誰にでも分かる。マンガの論調は、そのこと自体にも、否定的なものが感じられる。
このような問題については、もし年金制度がなかったら、と考えてみるのが参考になる。人は、いつまでも働くことはできない。老後の時期は、たとえ後倒しになっても、誰にでも訪れる。もし年金制度がなかったら、その時に頼りになるのは、現役時代から形成したお金なのだろうか。もちろん、それも大事ではある。しかし、自分だけで、自分の老後を賄うことができるのだろうか。その前に、親の老後は、どうするのか。自分を育ててくれた親は、それなりの出費をしている。育てなければ、その分の資産が残っているはずである。ならば、育ててもらった子供には、親の老後に対する一定の扶養責任があるだろう。一方、自分の子育ては、どうか。子供を育てるには費用がかかる。育てなければ、その分を老後に回すことができるのに。だから、親が、子供に老後の一定の扶養を期待することには必然性がある。実に、年金制度は、この世代間連鎖、輪廻を、家族内責任から社会的責任に切り替えたものに他ならない。
年金制度が不要だとか、廃止すべきだとか、あるいは、自分の老後は自分で積み立てるべきだと言っている連中は、この根本を忘れている。そうした連中は、自分の老後のことに頭が一杯で、親の老後のことなど眼中にない。何故か。親の扶養は、年金が担当してくれているからである。
さて、今一度、聞いてみよう。年金は必要ないのか。その時、親子は、どのようにして生きていくのか。
今回は、少し目先を変えて、標記のマンガについて、紹介してコメントしたい。
『ドラゴン桜』は、三田紀房氏による著作で、テレビドラマにもなったが、荒れた三流高校を、東大合格者を出して、立て直すという物語である。この『ドラゴン桜2』は、その続編にあたる。どちらも受験テクニックを織り交ぜ、受験生心理や教員の指導方針を、風刺を混ぜて浮き彫りにするもので、非常に興味深い。この続編では、SNSなどの今風のツールの活用も織り込んでいる。
ところで、今回、このマンガを取り上げたのは、作中で年金制度について、言及しているからである。主人公の桜木理事が、集まった生徒に対して、次のように言っている。
「君たちが70歳になる55年後、今とは全く違う社会に変わっていることは確実だ」
「現在は70歳の多くはすでに仕事を辞めて老後の生活に入っているだろうが、55年後はみんな元気で働いているかもしれない」
「みんな元気で働けば年金は必要ない。国は制度そのものを廃止するだろう」
「年金をやめれば国民の面倒を見なくてすむ。その上で税金は多く納めさせたい」
「そのためにも国民には一生働いてもらいたい。働いて死ぬまで税金を払って欲しい。これが国の本音だ」
そして、次のように続ける。
「文句を言わず、ただ国の制度に従って働き続ける国民であってほしいのだ」
「国民を他の言葉に言い換えると・・・馬車馬」
このマンガでは、馬車馬にならないために「東大に行け」と煽り、生徒達が拍手喝采するという進行になっている。ご都合主義だが、ロジックとして説得力のあるように構成されている。
さて、このマンガが提起している問題を、どのように考えればよいのだろうか。まず、東大に行っても、税金を私的に流用して説明責任を果たさない総理の擁護に必死になっている高級官僚の有様を見れば、東大に行くことが解決策にはなりそうもあるまい。
そもそも、年金制度は廃止されるのだろうか。それが正しい方向なのだろうか。少子高齢化の進行で、長生きして子供も少なくなれば、長く働くことが必要になることは、誰にでも分かる。マンガの論調は、そのこと自体にも、否定的なものが感じられる。
このような問題については、もし年金制度がなかったら、と考えてみるのが参考になる。人は、いつまでも働くことはできない。老後の時期は、たとえ後倒しになっても、誰にでも訪れる。もし年金制度がなかったら、その時に頼りになるのは、現役時代から形成したお金なのだろうか。もちろん、それも大事ではある。しかし、自分だけで、自分の老後を賄うことができるのだろうか。その前に、親の老後は、どうするのか。自分を育ててくれた親は、それなりの出費をしている。育てなければ、その分の資産が残っているはずである。ならば、育ててもらった子供には、親の老後に対する一定の扶養責任があるだろう。一方、自分の子育ては、どうか。子供を育てるには費用がかかる。育てなければ、その分を老後に回すことができるのに。だから、親が、子供に老後の一定の扶養を期待することには必然性がある。実に、年金制度は、この世代間連鎖、輪廻を、家族内責任から社会的責任に切り替えたものに他ならない。
年金制度が不要だとか、廃止すべきだとか、あるいは、自分の老後は自分で積み立てるべきだと言っている連中は、この根本を忘れている。そうした連中は、自分の老後のことに頭が一杯で、親の老後のことなど眼中にない。何故か。親の扶養は、年金が担当してくれているからである。
さて、今一度、聞いてみよう。年金は必要ないのか。その時、親子は、どのようにして生きていくのか。
2020年1月22日 日経 朝刊 2面 (社説)雇用のあり方をめぐる突っ込んだ議論を
2020年1月22日 日経 朝刊 5面 雇用「脱一律」で人材磨く 経団連春季指針 世界標準の環境に
「2020年の春季労使交渉に向け経団連がまとめた経営側の指針」に対する社説である。
「目先の賃上げだけでなく、持続的に企業が成長するための本質的な議論をすべきだという経団連の考え方は理解できる」とし、「労働組合も経団連の問題意識を真摯に受け止めるべきだ」としている。その上で、「時代遅れになっている雇用制度の改革論議が産業界全体で進むことを期待したい」としつつ、「通年で協議する場を設け会社の将来像を含め議論を深めるべきだ」と結んでいる。
経団連の「経営労働政策特別委員会報告」の内容については、5面で報じている。「年功序列賃金など日本型雇用制度の見直しに重点を置いた。海外で一般的な職務を明確にして働く「ジョブ型」雇用も広げるべきだと訴えた。」と要点を整理している。中西宏明会長は、「新卒一括採用と終身雇用、年功序列を柱とする日本型雇用制度」について、「現状の制度では企業の魅力を十分に示せず、意欲があり優秀な若年層や高度人材、海外人材の獲得が難しくなっている」と指摘し、「海外への人材流出リスクが非常に高まっている」と危機感を示したという。
経団連の考え方は理解できるが、「時代遅れになっている雇用制度」を作り上げ、維持してきた主体は、経営側である。「ジョブ型」の場合、その業務に関わる労働者が結集して職種別労働組合を結成するのが自然の流れであるが、日本の企業は、労働者が会社を超えて団結するのを嫌い、企業内組合にとどめることに力を入れてきた。「日本型雇用制度」は、そのような、「社会」より「会社」を重視させるための仕組みだったわけである。「ジョブ型」なら、自分の能力が十分に活用できない会社とは、さっさと縁を切って、新たな活躍の場を求めることになるだろう。「海外への人材流出リスク」という認識は甘いのであり、国内でも、「社外への人材流出リスク」は高まるし、それが「外部からの人材獲得チャンス」ともなるわけである。そうなった場合、既存の概念にどっぷり染まった大企業は、解体的変革を迫られる可能性があるわけだが、さて本当に、その途に進んで行けるのか。日本型雇用の都合の良いところだけ残して、「ジョブ型」の利点を取り入れようとしても、そうは問屋が卸さない。
社説が言及している「成果重視の賃金制度の必要性がバブル崩壊後から叫ばれながら、浸透していない」真の原因は、そこにある。物事を成すには、まず「隗より始めよ」と言う。年功序列で成り上がった経営幹部を一掃する覚悟がなければ、真の改革は為し得まい。
2020年1月22日 日経 朝刊 5面 雇用「脱一律」で人材磨く 経団連春季指針 世界標準の環境に
「2020年の春季労使交渉に向け経団連がまとめた経営側の指針」に対する社説である。
「目先の賃上げだけでなく、持続的に企業が成長するための本質的な議論をすべきだという経団連の考え方は理解できる」とし、「労働組合も経団連の問題意識を真摯に受け止めるべきだ」としている。その上で、「時代遅れになっている雇用制度の改革論議が産業界全体で進むことを期待したい」としつつ、「通年で協議する場を設け会社の将来像を含め議論を深めるべきだ」と結んでいる。
経団連の「経営労働政策特別委員会報告」の内容については、5面で報じている。「年功序列賃金など日本型雇用制度の見直しに重点を置いた。海外で一般的な職務を明確にして働く「ジョブ型」雇用も広げるべきだと訴えた。」と要点を整理している。中西宏明会長は、「新卒一括採用と終身雇用、年功序列を柱とする日本型雇用制度」について、「現状の制度では企業の魅力を十分に示せず、意欲があり優秀な若年層や高度人材、海外人材の獲得が難しくなっている」と指摘し、「海外への人材流出リスクが非常に高まっている」と危機感を示したという。
経団連の考え方は理解できるが、「時代遅れになっている雇用制度」を作り上げ、維持してきた主体は、経営側である。「ジョブ型」の場合、その業務に関わる労働者が結集して職種別労働組合を結成するのが自然の流れであるが、日本の企業は、労働者が会社を超えて団結するのを嫌い、企業内組合にとどめることに力を入れてきた。「日本型雇用制度」は、そのような、「社会」より「会社」を重視させるための仕組みだったわけである。「ジョブ型」なら、自分の能力が十分に活用できない会社とは、さっさと縁を切って、新たな活躍の場を求めることになるだろう。「海外への人材流出リスク」という認識は甘いのであり、国内でも、「社外への人材流出リスク」は高まるし、それが「外部からの人材獲得チャンス」ともなるわけである。そうなった場合、既存の概念にどっぷり染まった大企業は、解体的変革を迫られる可能性があるわけだが、さて本当に、その途に進んで行けるのか。日本型雇用の都合の良いところだけ残して、「ジョブ型」の利点を取り入れようとしても、そうは問屋が卸さない。
社説が言及している「成果重視の賃金制度の必要性がバブル崩壊後から叫ばれながら、浸透していない」真の原因は、そこにある。物事を成すには、まず「隗より始めよ」と言う。年功序列で成り上がった経営幹部を一掃する覚悟がなければ、真の改革は為し得まい。
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