2020年2月10日月曜日

2020年2月10日 朝日夕刊9面 (現場へ!)人生100年、キャリアよ続け:1 「働くのは生きている証し」

「いよいよ人生100年時代がやってくる」として、「老後資金、年金への不安や生きがい探しのため働き続けたいと願う人も多く、後半人生の課題として「セカンドキャリア」が注目を集めている。再就職に賭ける人や新天地に挑む人、起業を支援する動きなどを追った。」という記事である。
「人手不足や高齢化に悩む多くの自治体がセカンドキャリア支援に乗り出している」そうだが、「東京セカンドキャリア塾」が出色で、「都内の日大キャンパスの一室では60~70代の約30人が熱心に授業を受けていた。」とのことである。
「終身雇用が当たり前ではなくなったいまとのことで、、セカンドキャリアに進む人も増えている。」状況で、シニアライフアドバイザーの松本すみ子さんの「シニアも働きたいと思い、起業も増えている。働くのは生きている証しなんです」という言葉で締めくくっている。

寿命が長くなっている中では、個々人においても、働く期間と働か(け)ない期間とのバランスをとっていかないと、生活は成り立たなくなる。大学を卒業してから60歳の定年までの40年に満たない期間の就労で、就労開始までの約20年と、定年以降の約20年の40年を支えていけるわけがない。
就労開始までは親にみてもらうので関係ない、自分は自分の老後だけみればいいというのが、就労開始までの分は、子供の養育に恩返しし、自分の老後は子供にみてもらうという世代間連鎖で、人類は存続してきた。公的年金制度は、その世代間連鎖を家族単位から謝意単位に転換したものに過ぎないから、積立方式で運営することなどできるはずはなく、世代間の扶養、すなわち賦課方式で運営すべきものなのである。
少し、話が脱線したが、働き続ける「動機」と働き方の関係については、考えてみた方がよいように思う。すなわち、「老後資金」か「生きがい」なのかの違いである。もちろん、両面があるのであろうが、比重がどちらにあるのかということである。
「老後資金」、すなわち「生きるためのカネ」を求めてであれば、シニアかどうかは関係ない。自分の商品価値を高めて、少しでも多くの資金を得られるようにする必要があり、この場合の働き方は、より若い世代と競合するものになる。
一方、「生きがい」のためということにばれば、「何のために働くのか」を、もっと自分に問いかける必要があるだろう。この場合には、俗っぽく言えば、「世のため、人のため」に働くことが理想であろう。「働くのは生きている証し」というのは、自分のため以上に、社会のためになって初めて意味を持つ。とすれば、カネを得ての働き方に限定する必要はない。この分野では、見事な先例がある。「スーパー・ボランティア」の尾畠春夫さんである。
 https://www.fujitv.co.jp/fnsaward/28th/tos.html
ともあれ、まず自分を見つめ直すという点では、知らなかったが、「東京セカンドキャリア塾」に参加するのもいいだろう。これは、「シニア就業応援プロジェクト」の3事業の一つだそうである。
 https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2019/08/20/09.html

2020年2月10日 日経夕刊2面 エンジニア争奪戦活発化 即戦力求め、中途採用も
2020年2月11日 日経朝刊25面 (私見卓見)専門人材の評価、世界基準で

最初の記事は、「製造業で設計や開発に携わる電気・機械系エンジニアが足りないとの声を聞きます。新卒採用に苦労し、即戦力を求めて中途採用に踏み切る企業も増えてきました。」というもので、「日本では一企業に長く勤める慣行が続いてきましたが、保守的とみられがちな製造業でも地殻変動が起きているようです。」としているものである。

次の記事は、慶応義塾大学の小熊英二教授による寄稿で、「IT(情報技術)や金融など知的産業が台頭するなか、世界では専門的な技能や知識をもとにした人材の評価基準の共通化が進み、国をまたいだ高度人材の流動化が加速している。だが日本は独自の進化を遂げた雇用慣行のため、世界から隔絶されている。」というものである。
「専門職を評価する基準は、もはや国境を越えて共通化が進んでいる。専門性の評価基準がない雇用慣行を続ければ、わざわざ日本で働こうとする高度人材はいなくなる。それは労働市場に限らず、企業活動が次第に国内に閉ざされていくことも意味する。」という見解である。

教授の見立てはその通りで、欧米では、「マネジメントの専門能力がない人は、管理や経営はできないと考える。」が、日本では、「概念を扱う専門職はあまり認めておらず、評価する基準もないといっていい。結果、こうした分野に弱い。」ということになる。その象徴が社長の選定で、経営能力のある人を広く社内外に求めるべきであるのに、「熱意や協調性」を基準にする結果、社内の叩き上げが社長になることが多く、「社長、社員のなれの果て」という有様である。
いずれ、企業の中核は、専門人材のみになるであろう。いや、そもそも、「企業」という概念より、専門人材の「集合体」が事業推進の主体ということになるのではないか。IT技術の進展で、世界中に人材を求めることが可能になっており、増える一方のフリーランサーは、そのような人材供給のインフラとなり得る。
一つの企業に生涯勤め続けることは、一貫性があって誠実なように見えるが、そのような価値観は、徳川三百年の幕藩体制の中で培われてきたものであろう。その前の戦国時代には、有能な主君や適切な働き口を求めて、転身を図ることが当たり前であったようである。
今の世は、グローバル戦国時代とも言えよう。専門能力を磨かなければ、自分の価値を高めることができないのは、いつの世でも同じであるが、時代の風は、さらにそのことを求めている。
2020年2月10日 日経夕刊2面 今年の賃上げどうなるの? 成果反映の動きが加速
2020年2月11日 日経朝刊1面 三菱UFJ銀、一律の賃上げ廃止へ 評価重視に
2020年2月11日 日経朝刊2面 (社説)デジタル時代に賃金が上がる基盤固めを
2020年2月12日 日経朝刊4面 (中外時評)雇用改革、経団連の本気度

最初の夕刊の記事は、「今春の賃上げ交渉の特徴などについて、大友由美さんと藤里美さんが水野裕司編集委員に聞いた。」という体裁のものである。
今年の場合、先導役のトヨタ自動車の動きについて、「労組が今春、賃上げに関して新制度導入を提案します。基本給を底上げするベースアップ(ベア)について、人事評価によって個々人の上げ幅に差をつける内容です。労組は一律のベア要求を基本にしてきました。トヨタの動きは他企業への影響も大きいだけに、日本の賃金制度にとって転換点となるかもしれません。」としている。
そして、「経団連は今年の交渉開始を前に、終身雇用や年功序列に象徴される日本型雇用の見直しを重点課題に掲げました。」とし、「賃金のうち、職務や成果に応じて決める部分は大きくなっていくでしょう。景気回復には賃上げが重要だと思います。」としている。

実際の動きも出てきている。次の記事では、「三菱UFJ銀行の労使は今年の春季労使交渉で、行員ごとの人事評価に基づいて賃上げ率を決める方式で合意する見通しだ。一律の賃上げをやめることになる。」としている。「日本の労使による交渉は賃金水準を一律で底上げするベースアップ(ベア)を軸に議論されてきた。」が、「産業界では労使ともに優秀な人材には賃金を手厚く配分し、企業の競争力につなげるべきだとの認識が強まっている」とのことである。

次の社説では、「経営環境が不透明さを増すなかだからこそ、できるだけ外部要因に左右されず、継続的に賃金を上げていける土台を固めたい。」としながらも、「デジタル化の急速な進展で企業の競争はかつてなく激しい。業種の垣根を越えた競争が広がり、新しいビジネスモデルを引っ提げた新興企業が次々に台頭する。個人の創造性や専門性は今まで以上に問われる。成果に応じた報酬制度の拡充は不可欠だ。」としている。「能力開発の強化策を労使は議論すべきだ。」という主張である。

最後の「中外時評」での論説は、最初の記事の水野裕司上級論説委員によるもので、「経団連が企業向けにまとめた今年の春季労使交渉の指針は日本型雇用の見直しを訴えた点が目を引いた。…職務を明確にした「ジョブ型」雇用を取り入れるよう提案した。」ことに着目したものである。
しかし、「ジョブ型といっても欧米のように雇用保障の緩いかたちではなく、めざす雇用システム改革には曖昧なところがある。日本型雇用は「転換期を迎えている」というが、本気度に疑問もわく。」としている。
それは、経団連の経労委報告で、ジョブ型雇用について、「『欧米型』のように、特定の仕事・業務やポストが不要となった場合に雇用自体がなくなるものではない」としているからである。
その背景には、「本来のジョブ型の導入を避け、日本型雇用の踏み込んだ改革にためらいがみられるのは、企業にとっての利点を守りたいからとも読める。」とし、「日本の正社員は、急な仕事もこなし転勤命令にも従う使い勝手の良い労働力だ。長期の雇用保障の見返りに会社が得るメリットは少なくない。日本型雇用の見直しとは、当たり前のように享受してきた恩恵を手放していくことでもある。」と進めている。
締めくくりは、「経団連内部の保守的な声が思い切った改革に待ったをかけるのだろうか。日本の停滞を破るのは難しくなる。」となっている。

経団連のような旧来型の大企業が主導して、大きな改革を進めるのは、至難の業ということなのであろう。この図式を見ると、幕末の動乱に揺れる江戸幕府が思い起こされる。体制の維持を前提として、幕府も、様々な「改革」を行ったようである。しかし、それらは、因習や前例に縛られた既得権重視の守旧派の中で、効果をあげられなかった模様である。
「ベアを実施している企業でも、すべての組合員一律にというわけではなく、若年層を厚くしたり、職務や資格によって傾斜配分したりすることはありました。」ということだが、「若年層」が成果が高いとは言い切れない。恐らくは、社外の欲しい若年層との給与の比較で、流出を抑制し、流入を図るということなのだろうが、結局、それは、貢献や能力に応じた処遇ではないから、失望を招くことにつながりかねない。
今般のデジタル革命に対する対応にも、その轍を踏みかねない気配がある。明治維新は、様々な苦難を乗り越え、日本の近代化を推し進めたが、その原動力となったのは、開国とともに、旧来の士農工商制から解き放たれた多様な人材ではなかったか。人材鎖国を続けるのか、それとも広く人材を世界に求めるのか、日本の労働市場は、今、大きな分岐点に立っている。
2020年2月10日 朝日夕刊1面 韓国映画「パラサイト」米アカデミー賞
2020年2月3日 日経朝刊35面 「極狭」物件 無駄ない生活 1人寝転ぶのでやっとのアパート、若者に人気

最初の朝日の記事は、「昨年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した韓国映画「パラサイト 半地下の家族」が9日(日本時間10日)、米アカデミー賞の国際映画賞(旧・外国語映画賞)と脚本賞などを獲得した。」というものである。歴史的快挙と言える。
「物語で描かれた現地の住宅を訪ねると、韓国が抱える格差と社会の歩みが垣間見えた。」としている。「ソウル南部の冠岳区三聖洞。高層マンションが立つ小高い丘の崖下に、3階建ての集合住宅が並んでいた。1階部分は空間のおよそ半分が地面より低い半地下の部屋になっており、雨が降ると屋内が水浸しになるところもある。」という。「空気もよくないし、好きで住むわけがない。金がないんだ」というのが住民の声である。
「韓国に半地下の部屋ができたのは、北朝鮮との緊張関係が影響している。」という特殊事情があるようだが、この映画が注目を集めたのは、記事でのコメントで、韓国に住む西京大学の泉千春副教授が「半地下住宅は韓国にとって現在もリアルかつローカルな題材だ。それが映し出す社会の格差は、世界的に共通するテーマでもある」としている格差問題を象徴的に描き出したからだろう。

一方、次の日経の記事は、少し前のものだが、韓国の状況が、日本とかけ離れたものではないことを示すものである。東京都心の「居室の広さ約5平方メートル(約3畳)」という「極狭(ごくせま)アパート」が、「さぞ息が詰まると思いきや、満足して暮らす人が多いという。」記事である。それでも都心の京王線笹塚駅の例では、「家賃が月6万4500円」という。
記事では、「若者をひき付けるのは安さだけではない。」とし、最大の要因は、「時間の無駄」だとしている。「浮いた時間やお金を投資の勉強などに充てられるようになった。生活空間の狭さに対応して家具などを厳選するうち、自分が本当に好きな物に気付くこともできたという。」のが取材を受けた若者の考えだそうである。
記事では、「彼らの姿は持ち物を極力減らす流行の生き方「ミニマリスト」に通じる。」とし、「家は住む人の価値観を映す。都心で増殖する極狭アパートは、物質的な豊かさとは異なるものに価値を見いだす人々が増えている表れといえる。」と結んでいる。

後の記事では、「極狭アパート」を肯定的に描いているが、果して、それが実相なのだろうか。記事でも「部屋探しで同社を訪れた際にいったんは間取りや広さを気にする」とのことであり、やはり最終的な決定要因は「家賃」であろう。
今や、当たり前の状況となり、報道もあまりされなくなったが、「ネットカフェ難民」も少なくない。「ミニマリスト」ときどるのなら、彼らの方が、もっとそれらしいが、実質的な「ホームレス」とも言えるのではないか。日本だけでなく、アカデミー賞の地ハリウッドのあるカリフォルニア州では、高騰する家賃でホームレスが急増し、車の中に住む人も多いそうである。
「衣食住」は、日本の生活の基本である。都心にも、高層のタワーマンションの最上階のフロアに住む富裕層も、少なからずいる。そのような貧富の差が、自己責任の名の下に許容されるものなのか、社会正義や公平とは、一体何なのか。時あたかも、来年の米大統領選に向けて論じられるべき大きな争点である。