2020年2月15日土曜日

2020年2月15日 日経夕刊17面 (大機小機)ドルの覇権崩すデジタル通貨

「日銀や欧州中央銀行(ECB)など6つの中央銀行と国際決済銀行(BIS)は、中銀デジタル通貨に関して情報共有などをするグループを新たに設立した。各中銀が足並みをそろえて中銀デジタル通貨の創設に動くことを視野に入れているわけではない。中銀デジタル通貨の発行に向けた各中銀の姿勢や狙いなどは、ばらばらだからだ。」という論説である。
「米フェイスブックが主導するデジタル通貨・リブラと、中国が発行準備を進める中銀デジタル通貨・デジタル人民元に対する強い警戒心から形成されたのは間違いない。」としている。
一方、「米国もグループに参加していない。米国がデジタル通貨の発行に後ろ向きなのは、リブラや中銀デジタル通貨の利用が世界に広がると、米国の金融覇権が突き崩されてしまうからだ。」という。「米国は、国際銀行送金の際にその情報を伝える国際銀行間通信協会(SWIFT)と米銀を通じて、国際的な資金の流れに関する情報をほぼ独占し、国際戦略に使っているとされる。」が、「従来型の銀行間送金でなくブロックチェーン技術に支えられたデジタル通貨が国境を越えて広く利用されるようになれば、米国による送金情報の独占は崩れ、有効な経済制裁も実行できなくなる可能性が生じる。」というのである。
そして、「米国も今の方針を転換し、通貨覇権と技術覇権の維持を優先して、中銀デジタル通貨の発行に乗り出す可能性が出てくるのではないか。その結果、中銀デジタル通貨で各国が連携し、リブラやデジタル人民元を封じ込める動きも強化されるだろう。鍵を握るのは、やはり米国である。」と結んでいる。

リブラやデジタル人民元といった世界は、まだ私にはピンと来ない。だが、お金の流れに猛烈な変更が生じていることは実感する。特に、国際送金では、もはやSWIFTは完全な時代遅れである。その理由は、国際送金でやり取りされるのは、実際の通貨ではなく、通貨の価値だからであろう。このことは、テロの映画などでも、クリック一つで大金が送金されるシーンを思い浮かべれば明らかである。価値の伝達であってみれば、銀行間経由である必要はなく、ネットを介して誰にでもできることになる。実際、ビット・コインなどの仮想通貨は、犯罪でも利用されるようになっている。アマゾンのポイントなどは、実際の通貨と変わらない価値を持ってきている。
ただ、仮想通貨には、少し前のハッキング被害のような脆弱性がある。その脆弱性は、発行・管理主体の基盤が弱く、信頼性に乏しいことにある。Facebookのリブラや中国政府のデジタル人民元は、この点に着目し、巨大企業や政府の信用力によって、仮想通貨の信頼性を高めようとするものであろう。
よく分からないのは、ブロックチェーンのメカニズムである。いろいろな説明が行われているが、今一つ、ピンとこない。そこで探してみて、原論文にたどり着いた。
https://bitcoin.org/bitcoin.pdf
また、この論文の各国語訳も、掲示されている。
https://bitcoin.org/ja/bitcoin-paper
ざっと目を通したが、難度の高い論文である。社会への影響という点では、「ノーベル賞級」というのも、納得できる。ただ、この現代流の論文を理解できる審査員の数がそろうかどうかは疑問であるが。
中核的な点で理解できたのは、この技術が、peer-to-peer(P2P)の考え方で構成されていることである。P2Pは、中央制御機関を経由せず、端末と端末とで直接的に情報をやり取りするものである。この考え方により、ブロックチェーンの管理は、分散型で行われるようになり、障害にも強く、改ざんの可能性も低くなるというわけである。
改ざんの可能性が低くなるのは、取引の全データが全参加者に送信され、その認証の最も多いものが、最長ブロックチェーンとして認知されて、台帳が更新され継続していくことによるようである。細かな点までは理解できなかったが、これは、多数決を模したものであり、デジタル民主主義の産物と言えるのかもしれない。
大変興味深いのは、国家や巨大銀行などの中央独占的な組織に対して、デジタル民主主義が挑戦しているという図式になるわけだが、その技術の利用を図るリブラやデジタル人民元の管理主体が、独占的な企業や専制的な国家であるという点である。さて、この矛盾に満ちた動きの行く末がどうなるのか、興味は尽きない。
2020年2月15日 朝日朝刊33面 ●(ニュースQ3)「内定辞退させて頂きたく」 指南本、完売続出

「就職活動で学生が有利な売り手市場が続く中、企業に入社を断る「内定辞退セット」が人気になっている。手紙の書き方や電話のかけ方を指南するものだが、取り扱う書店や文具店では売り切れが続出。購入者からは「断れてほっとした」という声も聞かれる。」という記事である。
「春の入社が迫るこの時期でも、内定を断っていない学生もおり、売れ行きにつながっているという。」が、「人生で断る機会がほとんどなかったから、どうしたらいいのかわからなかった」という内定式の直前になって泣きながら社長に電話した男子学生の例も紹介されている。
記事では、「お断り」の悩みは大学生にとどまらないとして、本人の代わりに会社を辞めたいと伝える「退職代行サービス」にも言及している。「断れないのは、思いやりのはき違え」「ビジネスは恋愛にも通じます」という銀座の伊藤由美ママの声も紹介されている。「大事なのはいい子ぶらないことだという。」とし、「相手を気遣うことも大事ですが、大切にすべきは自分です」と締めくくっている。

この「内定辞退セット」については、当ブログでも、すでに取り上げたところである。
https://kubonenkin.blogspot.com/2020/01/20200121NY02.html
そんなに追記することもないのだが、この記事の最後の「相手を気遣うことも大事ですが、大切にすべきは自分です」は、間違ったコメントとしか思えない。
「大切にすべきは自分」だからこそ、何もしないのではないか。相手に嫌な顔をされたりして、自分の感情が揺らぐのが嫌だから、何の行動も起こさないのであろう。「相手を気遣う」などとは、まったく無縁である。相手に迷惑がかかることは少し想像すれば分かるはずだが、そんなことはどうでもよいということなのである。
もっとも、内定辞退や退職申出ができないのは、企業側にも問題があると思える。人手不足の中、内定や退職のつなぎとめに過剰に対応している場合も、あるのではないか。
この問題の当事者に考えて欲しいのは、「何もしないことも意思表示」だということである。それは、若者世代での「既読スルー」にも通じるし、シカトによるイジメと同列のものでもある。人生は、決断の連続である。その決断には、能動的な意思表示も、消極的な現状追認も含まれる。その中で、回避的な決定遅延は、結局、消極的な現状追認が続くものであるということである。その結果の責任は、本人が負わざるを得ない。本人が何もしていないつもりでも、実際には何かをしているのが、人間社会というものなのである。
2020年2月15日 朝日朝刊12面 (経済気象台)「全世代型」の回りくどさ

「政府が全世代型の社会保障改革を進めている。「全世代型」の言葉には、すべての世代が得をするかのような響きがあるが、決してそうではない。」という論説である、
「現行の社会保障制度を続ければ、将来の世代の負担は着実に重くなる。世代間の受益と負担の調整を進めなくてはならない。」とし、政府の「70歳までの就業機会の確保を企業の努力義務とする方針」については、「めざす方向は適切だが、なんとも中途半端だ。」としている。
「長寿はこの国の誇るべき財産だが、その分、国民全体の生活費や医療費は膨らむ。人口が減っていく子や孫の世代に多くを負担させるのは、いかにも無理がある。」とし、「いま必要なのは、定年制を廃止し、年金支給の開始年齢を引き上げる議論を、早く始めることだろう。政治には、国民から反発を買ってでも説得を続ける覚悟と、実行する胆力を期待したい。」と結んでいる。

その通りの正論であるが、「年金支給の開始年齢を引き上げる議論」が、すんなりと進められるかどうかという点になると、途端に先行き不透明になる。実は、「支給開始年齢の引き上げ」が検討課題として取り上げられた時がある。それは、旧民主党政権下の社会保障審議会年金部会で2011年10月11日のことであった。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001r5uy-att/2r9852000001r5zf.pdf
ところが、これを検討課題と提示しただだけで、マスコミや世論は、袋叩きにしたのである。厚生労働省には、その時のトラウマは、今も払拭されていないのではないかと思われる節がある。「支給開始年齢の引き上げ」がタブー視され、「支給開始年齢の弾力化」「70歳までの雇用環境の整備」で、状況変化を待っているのではないかと思われる。
一方、上記論説は、「将来の世代の負担は着実に重くなる」ので、支給開始年齢の引き上げを主張するものであるが、実は、若者の中にも、引き上げに反対する意見は少なくないのである。それは、引き上げは過去にもそうであったように、段階的に行われざるを得ず、結局、若者の方が割りを食う結果になることによるのであろう。
この点は、上記の年金部会資料の24ページでも、次のように言及されている。
「マクロ経済スライドによる給付抑制の調整期間が短くなることから、「スライド調整終了後」の年金給付水準の低下が緩和されることとなる。このため、世代間格差の縮小に寄与する面がある。」
「一方で、支給開始年齢の引上げが行われる以降の世代については、年金給付費の減少が生じることとなる。つまり、支給開始年齢の引上げは、将来世代に影響が強く出ることについて、どう考えるか。」
残念ながら、この点についての抜本的な解決策はない。乱暴な意見なら、今の年金受給者の給付を3割引き下げるべきだというような意見があるが、そんな事をすれば、年金制度は崩壊し、政権も倒れて社会・経済は大混乱に陥り、収拾がつかなくなるだろう。何でも、言えばいいというものではない。無責任極まる暴言である。
また、上記論説では、「定年制を廃止」に言及している。一連の流れからすると、「高年齢でも働ける間は働き」という感じに思えるが、「定年制廃止」は、「定年制延長」とは、まるで異なる。「定年制延長」は延長後の年齢までの雇用保障がセットされるが、「定年制廃止」なら、その保障はない。すなわち、業績や貢献次第で解雇される可能性が高まることになる。「好きなだけ働ける」のは理想だが、景気変動の中で、それだけの柔軟性を持つ企業は、皆無であろう。したがって、「定年制廃止」は、企業外への国家主体の生活保障の必要性を高めることになる。これも、支給開始年齢の引き上げに反対することにつながる可能性がある。
このように、支給開始年齢の引き上げの議論は、一筋縄ではいかない。それでも、寿命が延びれば、働く期間を長くして、年金の受給期間を短くするようにしなければ、年金制度が維持できないのは、理の当然である。現在のマクロ経済スライドによる年金減額は、年金制度の財政を成り立たせるための方策とか言われているが、年金額が老後生活の基本的所得保障ができなくなるまで落ち込めば、制度は実質的に破綻するわけで、年金財政もへったくれもあったものではない。むしろ、支給開始年齢引き上げへの誘導手段と考えるべきであろう。
その観点からすると、支給開始年齢の引き上げと言う言い方ではなく、長寿化の中での、標準的な引退年齢の提示というマイルドな形の方がようのではないか。欧米各国でも、寿命が延びた分に対応して年金の支給開始年齢を調整するという考え方が浸透してきている。一方で、高齢期における個々人の差異は大きい。適切な言い方を模索しながら、長寿化の中での年金のあり方を国民に考えてもらう姿勢が、政府や年金専門家には必要なのではないか。