2020年1月23日木曜日

2020年1月23日 日経 朝刊 23面 家族の変化と社会保障(4)子どもが持つ経済的意義

「やさしい経済学」欄における東北大学の若林准教授による連載解説記事である。 「家族の変化と社会保障」というテーマに関心を抱いた。

今回の内容は、「子どもが持つ経済的意義」ということで、「両親は子どもを持つことによる便益が費用を上回ったときのみ、もう1人子どもを持つことを選択します。この限りにおいて、経済学的には子どもの数が「少なすぎる」ことはなく、適切な数の子どもが生まれているといえるので、少子化は問題ではありません。」というものである。
その次に、「子を持つという行動は社会の第三者に便益(もしくは費用)をもたらすのでしょうか。つまり子どもに外部性はあるのでしょうか。」ということを論じており、「日本の公的年金制度は、勤労者世代が支払う税や保険料が高齢者世代の給付に使われる賦課方式です。すなわち、子どもをもう1人産むことは、親以外の第三者の生活をよくする便益を発生させます。」としている。
さらに続けて、「少子化は社会的に問題だとの主張がなされますが、そもそもそうした主張は、公的年金が賦課方式となっていることに起因します。親が希望する子どもの数よりも、制度を維持するために必要とされる子どもの数が多くなるためです。自分が将来受け取る年金を積み立てておく積立方式では、支払った年金保険料は将来自分が受け取るので、第三者の便益にはなりません。」としている。
最後に、「したがって外部性は発生せず、子どもの数が少なすぎるとはいえないのです。少子化が問題だという議論に、経済学的な根拠を見いだすのはなかなか難しいように思います。」と結んでいる。

この「経済学的議論」には、違和感を感じる。子どもの外部性が生じるのは、「公的年金が賦課方式」だからで、「積立方式」なら外部性は生じない、と言っているが、それは、積立方式なら、「自分の所得の範囲内で自分の老後の費用も賄われる、故に、子ども(自分の子でも他人の子でも)に依存することはない。」という理屈によるのであろう。
しかし、ならば、自分が成人になるまでの費用は、誰が賄っているのか。それは、親になるわけだが、この論説の考え方は、子育ての費用は、子育ての便益と一致しているはずであり、親に対する負債として残るものではないということになろう。だが、それは実態に合うものなのであろうか。
私は、子育ての便益の中には、子が老後に面倒をみてくれる期待も含まれるものと考える。人の寿命には不確実性があるわけだが、子の存在は、その不確実性に対する保険の役割を果たす面があると思うのである。
年金制度が「積立方式」なら、という議論に対しては、そもそも年金制度がなかったら、人は老後のために積み立てるものなのか、という根本的な疑問がある。子がいれば子に期待する分がある一方、子がいなければ自力で準備するしかない。
年金制度は、結局のところ、この子による親の扶養を、家族単位から社会単位に転換したものである。その仕組みが成り立つには、扶養を受ける親と扶養をする子どもの数(および期間)が均衡していなければならない。少子化が、この均衡を崩すのは、実は、「子どもを持たない人が、年金制度によって、他人の子どもに扶養してもらう」からに他ならない。
誤解lを招くのは、「現役のうちに老後のための保険料を支払っている」という年金制度のレトリックによるわけだが、そもそも、それは真実ではない。真実は、自分の親の扶養のために保険料という形で費用を分担しているわけである。この公的年金制度の本質からして、公的年金制度が積立方式で運営されることは、あり得ないのである。
結局、この論説には、以上のような考察が欠落している。そもそも、子どもの意義を、経済的側面に限定して論じること自体に、無理があるのではないか。

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