2020年3月12日木曜日

2020年3月12日 日経夕刊7面 (十字路)正常性バイアス

JPH代表取締役の青松英男氏による「正常性バイアスとは自分にとって不愉快で都合の悪い情報を無視、過小評価する傾向を指す。その場合、回避・抑制できた多大な被害をもろに受けることもある。現在進行形の新型コロナウイルス感染症対策は大丈夫だろうか。」とする論説である。
続けて、「多くの日本企業はこの正常性バイアスに陥っているのではないか。30年以内に70%の確率で発生が予想されているマグニチュード8~9クラスの南海トラフ大地震について事業継続計画(BCP)が十分には整備されていない。特に東日本大震災で露呈したサプライチェーンの脆弱性は未解決のままだ。」としている。
そして、「日本の労働力人口は2065年に現在より4割減少し4000万人弱になると予測されている。しかも主力産業の製造業における労働生産性の水準は、国際比較でかつての1位から14位まで下落した。頼みの女性労働力人口を増やすための施策(待機児童問題の解決など)はほとんど進展なく、生産性を上げる研究開発も欧米と比べ遅れている。」「さらに米中貿易摩擦・覇権争いから、世界の交易関係と情報技術系の分断化が進んでいる。日本企業は両ブロックとどう折り合いを付けるのか非常に難しい局面を迎える。」としている。
その上で、「危機を知らせる煙が上がっているのに、多くの上場企業がしていることは、短期的な株主のみを喜ばせる自社株買いだ。19年はアイ・エヌ情報センターによると7兆5千億円と過去最高を記録し、新株発行による資金調達額(3700億円)を上回る。自社株買いは自己資本比率が高く、自社で意味ある投資案件がなく、かつ株価が本来の価値より低いと会社が判断した時に行う平時の財務行為だ。」とし、「経営者は迫りくる困難を克服するため賢明な事業、研究開発、構造調整の実投資をするのが筋ではないか。長期的な株主は自社株買いより、かかる投資を評価するはずだ。」と結んでいる。

まず、「正常性バイアス」という言葉についてであるが、国土交通委員会の林浩之専門員による次の「災害時の心理学~正常性バイアス」が参考になるであろう。
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2019pdf/20190910002.pdf
この中で、「正常性バイアス」とは、「ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常の範囲内のものとして処理するようになっている」心のメカニズムであるとしている。上記の論説では、まず「新型コロナウイルス感染症対策」に触れているが、外国から見た日本人の状況は、まさに「正常性バイアス」そのものに見えるようである。
例えば、日本のマスコミは、若者は重症化しないと言い続けており、重症化の例を稀なもののように紹介しているが、NYの現状では、それどころではないようである。これについては、NYタイムズの動画で、医師が次のように警告している(下部に日本語字幕付き)。
https://togetter.com/li/1486436
日本で重点を置いている報道は、外国人が来なくなっている土産店とか人気のない居酒屋とかであるが、命がかかっている状況を本当に分かっているのか、と背筋が寒くなる。日本人は、政府や自治体による自粛要請に他国より従順とされているが、若者に危機感は乏しく、爆発的感染は、すぐそこまで迫っている。

ところが論説では、この緊急事態に突っ込まないで、南海トラフ大地震や労働生産性の水準といった点に話を進めている。言っては悪いが、これも一種の「正常性バイアス」ではないのだろうか。

南海トラフ大地震について言えば、「30年以内に70%の確率で発生が予想」されているものに対して、日常的な備えをすることは困難であるが、それでも、阪神大震災や東日本大震災の経験を踏まえて、備えは一定程度進められていると思う。このような有事に備えた平時の過ごし方は難しい。「正常性バイアス」と切り捨てるのは、いかがなものか。

また、労働生産性の水準に到っては、問題は認識されているのであるから、「正常性バイアス」というよりは、構造改革のスピードの問題であろう。指摘されているように、日本の労働生産性は下落しているが、労働生産性=GDP/就業者数 (または就業者数×労働時間)で、購買力平価(PPP)により換算して示される。
https://www.jpc-net.jp/research/rd/pdf/F3_01.pdf
上記によると、「2017年の日本の就業者1人当たり労働生産性は、84,027ドル(837万円)であった。OECD加盟36カ国の中でみると、21位にあたる(3ページの図3参照)。」「2017年の日本の就業1時間当たり労働生産性は、47.5ドル(4,733円)となっており、OECD加盟36カ国中20位であった(8ページの図8参照)」とのことである。
そして、「特に、製造業が盛んで産業構造が比較的日本と近いドイツは、1人当たり労働生産性でこそ第13位だが、時間当たりでみると第7位となっている。…長時間労働が評価されず、短い労働時間内で仕事を終わらせるために無駄なことを極力省いて仕事を進める意識が高いことが背景にあるといわれている。こうして高い生産性水準を実現していることは、日本の働き方を考える上でも参考になるだろう。(9ページ)」としている。
次に、論説にある日本の製造業の労働生産性は、「1990年代から2000年までトップクラスに位置していたものの、2005年は8位、2010年は11位、2016年は15位と後退している。トップクラスに位置する国々との差はさらに開いている。(23ページの表3)」とされている。
これについてのコメントは資料にはないが、「主要先進7カ国の産業別労働生産性のトレンド(14ページ以下)」を見ると、興味深いことが分かる。日本の場合、卸小売業、飲食・宿泊業で横ばいであるだけでなく、1995年から2000年にかけて上昇率で他国を凌駕していた情報通信業が横ばいに転じ、教育・社会福祉サービス業と娯楽・対個人サービス業に到っては、ずっと下落傾向が続いているのである。もちろん、為替動向が大きく影響する点には注意する必要はあるが、産業別の分析をもっと緻密に行う必要があるのではないか。「正常性バイアス」という言葉で片付けられる問題ではない。

最後の「自社株買い」についてだが、そもそも、この論説は、この点を言いたかったのであろう。すなわち、「自社株買いは自己資本比率が高く、自社で意味ある投資案件がなく、かつ株価が本来の価値より低いと会社が判断した時に行う平時の財務行為だ。」というのである。
しかし、この根本は、企業に資金が余っている点にある。その余剰資金での有効な投資が見つからないため、自社株買いで株式を減らして株主に還元するわけである。では、何故に、資金余剰になっているのか。それは、2007-2010年のリーマン・ショックの爪痕にあると私は思っている。この時、世界的な金融恐慌によって、企業の資金繰りが大きなピンチを迎えた。何が何でも現金が大事ということで、「Cash is King{現金が王様)」と言われた時代である。その後、金融緩和が行われて、特に日本では異次元緩和ということで、企業に資金がたまりやすい状況になった。政府・日銀は、それが投資に向かうことを期待したが、リーマン・ショックの恐怖がさめやらず、リスクを伴う投資には過度に慎重になった企業は、現金をためこむ行動をとったわけである。
このような行動は、「正常性バイアス」ではなく、「杞憂性バイアス」(そんな言葉はないが)とも言えるものではないだろうか。そんな折しも、コロナ・ショックで、ずっと批判されてきた企業の内部留保やキャッシュ・リッチの状態が、一転して評価されるようになってきている。まさに、「歴史は回る」である。未来を見通すのは難しい。

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